4−4 律法主義からの解放

1、律法は神が人間に与えた戒めと教えです。しかし、律法は人間を不自由にするため
に、人間を規則にがんじがらめにする目的ではなく、突き詰めれば、神の愛のあらわ
れです。逆に不自由さや、規則からの解放を願っておられるのです。ところが、旧約
聖書が成立して、1500年ほどたって、イエスがユダヤの地に生まれました。当時の
ユダヤではこの律法に対して、180度異なる考えがでてきました。それが、律法主
義者とよばれる人達でした。
 
 当時のユダヤでは、律法(旧約聖書の律法でなく自分たちが作った、規則、細則)を厳
格に守ることを主張した人達をパリサイ派(ファリサイ派)とよび、また聖書を研究する
人達や専門家を律法学者とよびました。彼らは律法(再度繰り返すが、聖書の律法では
ない)をまもることに、徹頭徹尾勢力を注ぎました。結果、それを守れない人をさげすみ
ました。それどころか、律法を守れない人は呪われた存在として、付き合いどころか、交
わることら、けがらわしいとしました。自分たちだけが、義(正義)であり、敬虔(けがれ
がない)とし、他人を罪人(つみびと=この意味については、後に説明します。)として、
裁いたのです。律法は神の命令とし、これを守らない人間は、神に敵対する罪人としたのです。
 
 2、このような、律法主義者にイエスが対決し、徹底的に批判したのです。イエスは罪
人と呼ばれていた人達と交わり、彼らを擁護しました。聖書で有名な箇所があるので紹介
します。パリサイ人と取税人との祈りを対比してみます。当時取税人は人々からも、罪人
の代表に忌み嫌われた人でした。しばしば、不正な取り立てをして私腹をこやしていたか
らです。
 
 イエスは次のような譬えをしました。
「ふたりの人が、祈るために宮(今の教会)に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひと
りは酒税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。わた
しはほかの人々ようにゆする者、不正な者、姦淫をする者でなく、ことに酒税人のようで
はないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分に受けるものはみな、その十分の
一をささげおります。』
 ところが、酒税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともせず、自分の胸をたたいて
言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この
人が、義(正しい人)と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜな
ら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
(ルカ18ー10〜14)イエスは、当時の宗教界の価値観を根底からくつがえしたので
す。イエスは、人間の外面でなく、内面をみたのです。形式でなく中身を重視したのです
 3、イエスの活動は別の箇所にゆずるとして、律法主義者とのいわば宗教戦争の様相が
あったことは、否定できません。律法主義者は自分達が律法を守り、自分達が律法に対し
て正当な態度(これを自分を義とするといいます。)として、そうでない人達を裁き、切
り捨てたのです。イエスはそうでなく、彼らによって裁かれ、切り捨てられた人達の側に
立ったのです。
 
 酒税人、売春婦、サマリヤ人(当時は異邦人として付き合いをしませんでした。)また
、当時の忌み嫌われていた病気の患者、(その人たちは社会から遮断されていました。)と、
積極的に交わり、彼らの側に立ちました。イエスは律法主義者を偽善者と呼びました。表
面の敬虔さとは裏腹の虚偽や独断を攻撃しました。
 
 問題は律法を守れない者をバッサと切り捨て自分たちのみが正しいとする傲慢な態度な
のです。また、彼らの聖書(旧約聖書)の解釈は形式的で、偏見に満ちていたからです。
当時の宗教界のリーダーであった律法主義者へのイエスの批判と攻撃は、宗教改革である
と同時に宗教戦争の面があったのです。
 
 4、イエスの彼らに対する攻撃は徹底かつ容赦のないものでした。だれでも、あれくら
い言われると頭がカーとするだろう。いや、多分切れてしまうだろう、それくらい激しか
った。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」これが8回続いて、
おまえたち蛇ども、まむしのすえども」と鋭く批判します。(マタイ23ー13〜36)
「『目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もき
よくなります。』『パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓は
その外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいななよ
うに、あなたがたも、外側は人には正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです
。』」(マタイ23ー27)
 そして、彼ら(律法主義者たち)は「イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。」
(マタイ26ー4)また、「イエスを死刑にするため協議した。」(マタイ27ー1)
 
 5、「わたし(イエス)が来たのは律法や預言者(旧約聖書)を廃棄するためだと思っ
てはなりません。廃棄するためでなく、成就するために来たのです。まことに、あなたが
に告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはあ
りません。全部が成就されます。」「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、こ
れを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ば
れます。しかし、それを守るように教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます。」「
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が律法学者ヤパリサイ人の義にま
さるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5ー1
7〜19)
 
 イエスは罪人のために、罪人の救いのためにこられたのです。そして、死後昇天後数百
年たって完成したのが、新約聖書なのです。ちなみに、義とは、漢字では、我という字の
上に羊という字が乗っていますが、我と言う人間に羊であるイエスが乗ったとき、人間が
イエスを受入れて始めて、義になるとある人が言っていますが、もっともだと思いません
か。イエスは律法主義との対決から解放をめざしていたのです。「しかし、今は、律法とは
別に、律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・
キリストを信じる信仰による神の義であって、すれはすべての信じる人に与えられ、何の
差別もありません。」(ローマ3−21・22)「人が義と認められるのは、律法の行いでは
なく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3−28)
 
 6、律法主義は2000年前の問題で済んだのではありません。クリスチャンや聖書を
信じる人にとり極めて現在的な問題でもあります。聖書を知り、学び、聞いている人たち
のなかに、形式や外面にこだわって、他人を裁いたり、見下したりしている人はいないで
しょうか?。聖書を信じる人が律法主義の束縛にとりつかれ、杓子定規や、かた苦しさを
与えていないでしょうか?。律法主義的な考えが充満して、律法を守れない人なんてと裁
いていないだろうか?。お酒を飲む人や煙草を吸う人を、律法を守れない人だと、バッサ
リと切り捨てていないだろうか?。茶髮の人や変わった服装をしている人を見下していな
いだろうか?。
 
 本音を言う人や自分の意見をハッキリのべる人を排除していないだろうか?。はては学
歴や職歴や住んでいるところで、白い目でみていないだろうか?。「心をつくし、知力を
つくして、あなたの神である主を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
「律法全体と預言者(聖書)とがこの二つの戒めにかかっているのです」。(マタイ22
ー37〜40)律法は愛のためにあるのです。

7、律法とキリスト教との関係、第3章の信仰もそうですが、これらについては、新約聖
書で、パウロが「ローマ人への手紙」=「ローマの信徒への手紙」のなかで、特に詳しく
述べています。ローマ人への手紙は、手紙というより新約聖書の教理、神学論を書いたも
のと言われています。キリスト信仰とは何かについてのまとめが書かれているのだと。
日本の代表的な伝道師、内村鑑三は、「ローマ人への手紙」を聖書の真髄と絶賛しました。
したがって、律法とは、信仰とは、キリスト教の神学とは何か、にもっと深く知りたい、
挑戦したい方は、その部分への学びが欠かせないことも蛇足として、付け加えます。
 

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