成功聖書奥田 昭 |
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9月23日(平成14年) 1月6日(平成15年) 1月1日(平成16年) |
成功聖書1週1話 9月23日
人間が新しいことにチャレンジしても、土台が、根本が変わらねばとよく言われることである。新しいことがすべてが良いとは限らないが、人間が新しくなるには、従来の思考の枠組み、古い考えにとりつかれていてはどうしようもない。この言葉のイエスによると、旧い宗教の枠組みでなく、新しいイエスの福音(よきしらせ)による思考の枠組みを作ることになる。 それは古い皮袋を捨てること。古いものを捨てること。それくらいだったら誰でもできる。特別無理難題なことをしなくてよい。それが、新しい考え、枠組みを得ることだ。捨てなさい。執着していてはいけないのだ。 |
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まず、与えることから始まる。人間社会ではこれが逆さま。まず自分か ら。しかし、発想を変えて、立場を変えていままでの、貰う立場を変えて 考えてみたらと説く。 聖書は逆転の思考を要求する。人間はあくまで自己中心、いまの流行語でいえば自己中、自分がなにをしてもらえるか、これが第一。しかし、聖 書はそれは第2で、まず相手からとする。 日本人は与えることが、もともと下手な国民とは、世界中の常識といわ れている。数々の国際的援助、救援に対しても、こころからよろこんでも らえず、まさに「情けは人のためならず」になっている。心の根本にまず、与えるとの考えがないからだ。 しかし、まず、相手方とこころ構えを変えて考え、行えば、他人にかけ た情けはめぐりめぐって、結局は自分のためになること言う、情けは人( 他人)のためでなく、自分のためですよ、との結果になりますよ。自己中でなく、他人中心ですよ。そうすると世界がかわるよと聖書は教える。 |
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1週1話 10月7日
心配ご無用。とんち話で有名な一休禅師が遺言をして、もしこの寺でど うしようもなく困難な問題があったらこれを見なさいと言い残した。寺で大事件が起こったので、遺言を開封すると、たった一言「心配するな」と 書かれていた。人間に心配はつきものだ。 しかし、人(一休禅師)と、神(聖書)が言うのとはちがいがあるのだろうか。心配ご無用のつまることろは、わからないからどうにかなる、が 人(一休禅師)の結論。たしかにかにどうにかなるが、それだけではどう にも心もとない。 聖書の神はどうにかなるのではなく、神の計画、将来をちゃんと決めて あるので、大丈夫というわけである。つまり先がわかっているから、大丈 夫なのだ。だから神にまかせる、これが肝心。 しかも、心配は今日だけでなく明日もあると聖書はいう。しかし、明日 がくれば、明日は今日になる。見方を変えれば明日はなく、全ての日は今 日なのだ。明日は明日の風が吹く、と気楽に行けるのは、確かな神がある という安心なのであると説く。 |
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1週1話 10月14日
日本には「捕らぬ狸の皮算用」との諺がある。不確かなことを当てにし て、安易な計画を立てたり、儲けを先に計算してはいけない戒めとされて いる。 しかし、聖書は反対のことを説く。願いの先取りことが大切だと。皮算 用しなければ、はじめから狸を捕る計画がなかったと同じだ。計画はだれ でも立てる。しかし、それがすでに達成された、実現されたとは、ほとん どの人は予想しない。皮算用しない。 この言葉は願いの法則を説いているのである。願うとは実現すること、 実現したことを前提にもう一歩先を見る。実現の前取り、これが聖書の言 う、願いの基本である。どうなるかな?ではなく絶対そうなる!多分?で はなく、必ずそうなる!できなかったら?ではなくできたらこうなる。こ うする!わかろうとしない?ではなくわかろうとする!である。 願望のない人はいない、しかし、それをもっている人のなかで、その願 いが実現すればどうなるのかを言える人もめったにいない。願いは即、実 現の先取り、これが聖書の言葉。
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1週1話 10月21日
「備えあれば憂いなし。雨の日に備えて蓄えよ。」ふだんからの準備が 大切だ、は我々の日常には大切な格言だ。 しかし、聖書はすべての準備にまさって、神に会う準備こそが大切と言 う。日本人の貯蓄率の高さは、世界で有名である。しかも、その多くは老 後のためと言われている。老後の備えは熱心だ。だが、老後に対する不安 や恐れから、貯蓄にかりたてているとすれば、反面なさけない。 また、仮りにいくら、銀行や郵便局に預貯金があってもそれだけでは、 100%安心でない。安心、平安はお金で買えないことはみんな知ってい るから。 聖書はべつに「主(神)の山の上には備えがある」とも言っている。我 々人間があくせくして、わずかなものを蓄えたとしても、いや仮に蓄える ことができなかったとしても、神が蓄え、用意してくれると、だから、一 番大切な用意である、神に会う備え、それは明日かも知れないし、10年 後20年後かしれないが、その確かな日のために備えをすることである。
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「百聞は一見にしかず。」100回聞くよりも一回見ることにおよばない 、聞くことよりも見ることなのだと日本の諺は言う。たしかに、テレビと ラジオの影響力をくらべるだけでもはっきりする。耳よりも目である。脳 の働きも、視覚神経と聴覚神経では、細胞の働きが随分違うこともハッキ リしている。 しかし、聖書はその見ることに頼る人間の弱さを指摘する。見なくとも 信じれるかと。信じることは、見えることに影響されてはならない、との 戒めである。 見える神、これを聖書では偶像というが、これを特に忌み嫌う。アフガ ニスタンでテロリストタリバンが偶像だとして文化遺跡を爆発したのは いただけないが、見えるものに頼る人間はもっといただけないとするので ある。 信じることは、見えなくともと言う前提がなければならないのである。 見えるから、信じますは、レベルとしてはすこし下がる、見ずに信じてこ そ幸い=第1級というのである。 |
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1週1話 11月4日
聖書の有名な話である。弟子のペテロが、十字架にかかる前にイエスを 裏切った、そのことを預言したイエスのことばである。一番弟子が二度な らず、三度までも。それもつい今さっきまでは忠誠を誓っていたのに。も のごとは繰り返すか?いいにつけ悪しきにつけ。日本の諺にも「二度ある ことは三度ある。」 しかし、事実は逆で、同じことは度々ない。まして三度など同じことが 繰り返す確率はは奇跡に近い。だとすれば、めったにない繰り返し、二度 同じことがつづいたら、用心して今度は、三度目はけっして起こさないよ うにしなければならない。 人間は同じ過ちを繰り返してきた。その反省もない。自分の人生ではど うか。同じ失敗を繰り返していないか。二度も三度も同じ過ちをくりかえ していないか。聖書は3500年の歴史のなかで、人間の過ちを数々見て きた目がある。過ちは繰り返しません、と繰り返して言うことがないよう に心掛けなければならない。
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1週1話 11月11日
聖書の別の箇所では、「言葉についての論争などしないようにしなさい 」と一貫して、議論をしないように説いている。「理に勝って非に落ちる 。」とは日本の諺。理屈の上では相手に言い負かしたとおもっても、実際 は不利な立場にたつことがよくあること。いや仮にそうでなくとも相手に 悪感情を残すことだからやめなさいと。 しかし、議論が必要なときもあるのでは、との反対意見がある。これが 議論?。聖書がここで言うのは、言葉=真理=価値観についての議論であ る。価値観については、つまるところ選択は各個人の自由である。自由を 犯してはいけない。できることは、価値観の決定材料の提供だけ。情報だ け。これは自由にやりとりしなさい。 しかし、決めるのは各人の自由意思ですよ。とは聖書の立場。情報すら 自由に与えられていない国がある。判断に必要な情報すら見聞きすること を禁じている団体がある。これを独裁国家といい、オカルト団体と言う。 判断する自由、選択する自由、これを禁じたのでは決してない。自由の取 り違えをしてはならない。 |
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1週1話 11月18日
「千里の道も一歩から。」大事業も、はじめは手近なところからはじま る。イエスの話を聞こうと男子だけでも、5千人も集まった。女子供をい れると2万人にもなろうか。それに食事を与える。それも、わずかな、パ ンと魚で。弟子たちはあまりにも、大きな問題に途方もくれていただろう 。どうすればいいのだろうか。 問題が大きければおおきほど、小さなことが大切。まず、問題もいくつ かに分けなさい。そして、手近なことから始めよう。5000人(大問題 )からでなく、50人(小問題)から始めよう。仕事でも、事業でもそう だ。目標を大きな目標小さな目標、と分けてやりやすいところからやりは じめよう。 日本人は大目標をたてることが苦手と言われる。しかし、大問題ほど小 さな問題をおろそかにしてはいけない。小事を大切にするものが、大事も なしうる。大きいことだからよけいに小さなことに目をやりなさいよと、 聖書は蟻の目(小問題解決の目)、鳥の目(大問題解決の目)の必要を説 く。
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「人も見て法を説け。」相手の性質や好みを見て、一番今あったもの、 方法を相手に与えれば相手を自分どおりに言い聞かせることができる。人 を説得するのは難しい。だから人それぞれですよ。一見正しいような日本 の諺だが、そうでない場合もあるというのが、この聖書の言葉。 聖書は、むしろ、いかに値打ちが有ろうが、値打ち分からないような人 には与えても無駄としている。お金が一番と思っている人に、真理の話は 無理と説く。お金以外に興味が無い人に、天国の話は無駄。豚に真珠、猫 に小判、犬に聖書だ。 まさに人を見て、判断して、話すべきか、話さずに避けるのかを決めな さい、とそうでなければ無理や無駄を繰り返すことになりますよ、徒労に 終わるよ、時間の無駄になると説く。 もっとも、イエスは聞く耳を持つ人には、譬えで話され、聞く力に応じ て、み言葉を話されたとあるので、その人が必要としているかどうかの判 断も重要になる。
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1週1話 12月2日
「実るほど頭の下がる稲穂かな。」人は道徳や学問、地位、名誉がつく と、なればなるほど他人に対して謙虚になる、そうならねばならない、戒 めと普通は言われている。人間の世界では、この逆が多いので、そうしな ければいけない、との自戒の意味もこの日本の格言にはこめられている。 聖書も謙遜をすすめる。高ぶるな、傲慢になるな、再三にわたって説い ている。傲慢になって、滅んだ人間の歴史も数々と聖書のなかに書かれて いる しかし、聖書は一歩すすんで、だれに謙遜かを問題にする。 人に対して傲慢になるなと禁ずるだけでなく、神に対しても、そうなっ てはならぬ、と聖書はその対象を問題にしている。人ならばとりあえず、 回りの目に見える人々だけが、対象になるが、目にみえぬ神は、いつでも 、どこでも、である。 したがって、うわべのとり繕いの謙遜さではない。本物の謙遜が要求さ れる。低くする者(謙虚な人)を高くされる(祝福を与えられる)のは神 だからである。見えない者に謙遜を。 |
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1週1話 12月9日
山に匹敵するほどの問題があっても、微動だにしないような問題であっ ても、解決する秘訣が聖書には説かれている。 まず、第1に「言って」宣言すること。私には「この難問題を解決する ことができる」との宣言である。紙に書くのもよし、大声をだすのもひと つの方法、達成宣言といってよい。 次は「疑わず」である。できるかな?ではなく、できるである。あやふ やなこころは、力が分散する。聖書は問題の解決を妨げているのは問題か らくる疑いや不安からだとする。 また、大切なことは問題そのものを見るのでなく、問題の先を見ること 。山(大問題)でなく海(解決された世界)を見ること。 最後に「信じる」ことが、決め手となる。信じて疑わずとあるように、 「疑わず」×「信じる」=偉大なパワーに転換するのである。ダイナマイ トとは信じるものの爆発力である。どんな問題も解決できる道筋が用意さ れている。それがどんなに大きくとも。
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1週1話 12月16日
「七転八起」、ななころびやおき、自力再生、日本人の好きな言葉であ る。何回失敗しても、それに負けず勇気を振り絞りふるい起きることがで きる、頑張りがすきな日本人ピッタリである。 しかし、7回しか転んでいないのに、どうして8回も立ち上がる必要が あったのだろうか? 7回でいいのではないか? これは前提が初めから倒れているになる。赤ん坊をみれば分かる。赤ん 坊は最初はハイハイもできぬ、這って進む匍匐前進状態。しかし、最初だ れかに手を貸してもらい立ち上がった。人間は最初は倒れた状態。だから 8回起き上がる必要がある。 聖書は別の箇所で「主(神)はかかんでいる者を起こされる」とあるよ うに、倒れていても、ダウン状態でも、神が手をかしてくれる、助けてく れる、そんな意味がこめられられている。 七転八起は自力再生、自力救済の意味でなく、むしろ神が助ける、神に 任せる、他力救済をすすめたのが、聖書である。自分でたちあがれなくと も大丈夫、無理しなくも頑張らなくてよい、大丈夫なのである。 |
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1週1話 12月23日
「一生懸命。」ある目標に対して、人生の命をかける、一生このような ことのできる人はうらやましい。素晴らしいことをなし遂げた人達はみな 命の燃焼を、一つの目標に対してすすんだ人である。 この言葉は聖書の真理を伝えることに使命に燃えたイエスの弟子のパウ ロのものである。パウロは目標にむかって進む際のこころ構えも説いてい る。「うしろのものを忘れ」とあるように後ろ向き、消極的、否定的なも のから離れたのである。後ろにこだわれば、必ず前進の妨げになることを 知っていたからである。また、前進するには、「すでに達していることろ を基準として」進むことも必要だとする。 一生懸命は、日本では一所懸命から来た言葉とされる。一所=ひとつの 所=土地に、懸命=命をかけるの鎌倉武士からの伝統の言葉として。しか し、バブル崩壊の歴史に見るように命を懸ける対象を間違うととんでもな いことになる。 |
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逆転。聖書は逆転の勝利を説いた書だ。そしてこの言葉もその逆転について言ったものだ。逆転とは最後までわからないことである。この箇所は、マタイの福音書のイエスの天国の譬え話でてくる一か所である。そしてこの譬え話は「天国には、朝9時に来た人も、12時の人も、5時に来た人もみな、おなじ恵みを受ける」その譬え話に用いられている。早く9時に来た人も遅れて5時に来た人も同じにあつかわれてる したがって、聖書の逆転の意味は通常とは異なる。通常は、競争でも最後は追い越し、ひっくり返す意味だが、そうでなくむしろ天国にたどりつけば、結果としてみな同じと言う意味において、逆転なのだと。後が先になるとは、出し抜くことでなく、同じ結果、同じ恵みを言うのである。早くとも遅くとも同じ。少々の遅れはよし。 この世では、後から来た者は頑張って先にいくことが求められいるが、天国の価値観はそれとは違い競争の論理から開放される。人を出し抜く必要がないのだ。 |
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仏の顔も三度。いかに情け深かった釈迦でも、その裏切りには、せいぜい三度ぐらいで、それ以上になれば、だれでも怒りますよ。ですからいい加減にしないと、人を馬鹿にすると、だれでも、4度目は切れますよと人間世界のル-ルは言っている。しかし、聖書はちがう。 聖書では7はもともと、完全をあらわす。したがって、3度はおろか、仮りに限りなく、裏切ったとしても、人が際限なく裏切ったとしても聖書の神はそれを許すと宣言している。 人間が他人をゆるす許容力はたかがしれている。しかし、神がもつ許容性は限りがない、七の七十倍許す。その意味で無限に、完全に許す世界である。 |
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天は二物を与えず。人にはよいところも、悪いところもある。よいところばかりそろっている人はいない。と人間の世界は言うが、聖書の言葉はこの点でははなはだ不平等に聞こえる。取りようでは、金持ちはますます金持ちになり貧乏人はその逆だと。 したがって、この個性を生かしている人はますます、その個性が広がり、高まり、そして豊かになるというのである。個性のない人はいない。持たない者と決めつけているのは、その本人のみである。ない、と決めた人はあたえられたその個性が死ぬ、取り上げられるのだ。タラントが豊かになるには、人と比べではなく自分の個性に誇りをもつことである。能力をつかうこと、使えば使うほどでてくる。能力は無限である。 |
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稼ぐに追いつく貧乏なし。一生懸命働けば、たべることに不自由はしない、貧乏になることはないという日本人がかつてもっていた勤勉の特性。昔はもっていたが、今はないと言ってよいような現在の日本人。大卒者が就職して平均3月で何十%は退職する現在の日本。もはや勤勉は死語になったのか。 アリとキリギリスの話は聖書から来ている。怠け者のキリギは、勤勉者のアリに最後には泣きつくが、それはあとの祭り。働かざる者は食べるべからずとのきつい結論を聖書から出す人もいる。 |
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蒔かぬ種は生えぬ。けちって少ししか種を蒔かねば、少ししか収穫できない。大きい収穫を望むなら、大きく種蒔きをしなければならない。最初ケチな考えで出発すると、最後はケチな結果に終わりますよ、との戒めである。同時に人にあたえる場合も同じで、惜しんだりけちったりすると、人からの見返りも、少ないですよとの意味もこめられている |
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一寸先は闇。以前は明日はどうなるか分からないと言われた。現在は1時間後はどうなるかわからないといわれている。文字通り一寸先が見 えない時代である。情報化社会といわれて久しい随分時間が経った。情報は氾濫している。しかしその情報が有りすぎて、選択できない状態になっているのも正直なところである。 しかし、確実な明日がわからない。確実な1時間後が読めない。不確実な時代。それは、流された情報が信頼できない。テレビ、新聞、インターネットの情報は心から信頼できない。
あなたは、だれを信頼して情報を受けますか。 だれの情報を待ちますか。聖書は確実な情報を伝える情報誌、部数は現在世界で毎年2億冊が発行、代金はほぼ無料。講読はだれでも、いつでも、どこでも、何度でも読める。 |
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楽あれば苦あり、苦あれば楽あり、でない世界が聖書にはある。聖書の言葉が、ビジネスや教育にひろく用いられているが、とりわけモチベーション(やる気)欠かせないとされている。積極的、肯定的、前向きな考えは聖書には星の数ほど詰まっている。楽もあるが苦もあるのでなく、楽しかない世界である。すべてが益になる。すべてである。たとえ、その時は苦に見えても、かならず楽になるのである。したがって、苦とは思わない、感じないから、楽ばかりなのである。 聖書はなんと、ノウ天気、一人よがり、マスターベーションとの反論もあろう。現に聖書は3500年その批判にさらされ続けてきた。しかし、聖書そのもの存在が証明する、すべて益となっている事実がある。 聖書を抹殺せよとの、時の権力者の命令により、焚書の危機に歴史上幾度となくさらされた。近くは共産国家のソ連でも、中国でも。しかし、ソ連は崩壊し、中国も変わった。すべてが益る。これからも。 |
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負けるが勝ちは敗者の論理。人間の世界では、一発やられたら、二倍、三倍にしてお返しするのが常識。やったらやり返せ。じつは、旧約聖書には「目には目を」の言葉もある。その方が分かるという方もいる。どちらが聖書の言葉ですかと、質問する方もいる。 まず、目には目を、は当時ユダヤに伝わった同害報復を表したもの。すなわち、加えられた害以上の害を相手におよぼしてはいけないことを戒めたもので、やったらやり返せではない。むしろ紛争を抑える役目があった。 イエスはその戒め(聖書では律法といった)を超越し、相手を許し、相手を受入れ、相手を愛する論理を展開した。これを福音という。人間だったら、左の頬は出せない。しかし、頬を出す気持ちになれないと、相手を許せない。目には目では、紛争は抑えられても、相手を受け入れることは出来ない。愛せない。頬は出せないけれど、出す。これがイエスの教え。負けるように見えているが、じつのところ相手をのみこんだ者の愛。敗者でなく、勝者の論理。 |
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案ずるより産むが易し。思っていた心配より実際はそうでなかった。母になった女の人は皆経験する。だからあまり心配してはいけませんよ。取り越し苦労ですよ。と日本の格言はいう。心配する人は、ものごとに対して最低3回は心配する。その前と途中とその後で。人間には心配はつきものだ。 聖書は、何度も何度も心配するなと、言っている。心配するとなぜいけないのか。まず見えなくなるから。自分が人が、そして聖書はこれが一番大切だが神が見えなくなるからだとする。心配すると神から離れる。なぜか、心配は自分の独りぼっちの世界へ閉じ込めてしまうからだ。 心配は前進の肥やしでなく、破滅への麻薬である。心配して後ろ向きになれても、前向きにはなれない。心配することより他にすることがある。案は計画案に通ず。計画段階であれこれ、あまり悩むとその時間とエネルギーで、実行段階で立ち止まる。前へ進めない。とりあえず、一歩前へ。取り越し苦労は止めて、実行に移そう。 |
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人生のやり直しは可能だろうか。多くの人は自分は変わりたい、やり直したいと願っている。できるだろうか。の問いに聖書は「できる」と回答している。やり直しは可能、人生変革は出来るといる。 私たちの人生は、自分の考え、心構えで生きてきたわけだから、今までの、敗北したきた道のりや失敗は心構えを変えることでこのことが可能になる。ただ、そのことと同時をそれを誰と一緒にするかだとも問うている。 朱に交われば赤くなる。類は類(友)を呼ぶ。いままでと、おなじ環境ではできない。今、あなたに一番影響を与えているのは、あなたを取り巻くあなたの環境、あなたの友、それを変えなさいと聖書は言う。 イエスを友としなさい。イエスを受け入れなさい。そうすれば、イエスという色にあなたも染まります。人間中心でなく、神中心の人生が歩めます。だれでもとありますから、もちろんあなたもです。新しく造りかえられます。古い自分中心から。 |
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現在の日本では、年間3万人もの自殺者があると伝えられています。なんと悲しい出来事でしょか。予備軍、未遂者や人知れず心のなかで 、一度ならず考えた人は10倍もの数になるともいいます。 なんと恐ろしいことでしょうか。豊かな国、先進国といわれている日本に特別の原因があるのでしょうか。上記の聖句は使徒の働きの章に出てくる、使徒パウロの言葉です。 パウロが伝道の途中で捕らえられ、牢獄に入れられたが、神の働きにより、牢獄の鍵が開けられ、自由な身になったことを見た看守が、驚きと失望のあまり、自殺をしようとしたときの、看守への言葉です。 立場が一転して、自由とそうでない者の対比として描かれています。今までの事が一転しました。自殺の大きな原因に大きな失望=絶望があります。しかし、パウロはこの言葉をかけたのです。 今まで、自分たちを懲らしめていた、いわば 敵に対して、憎しみを乗り越え、愛の言葉をかけたのです。 |
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旧約聖書に出てくる代表的な自殺者は、サウロ王である。初代イスラエルの王に神より選ばれ、イスラエル建国のために働き、一時は国民にも喝采をもって迎えられ、地位、名誉、財産のすべてを手に入れたかに見えたサウロ、しかし、彼は自殺した。 もともと、神から選ばれた者が、なぜ自殺などをするのか疑問がでてきますが、神から愛されたがゆえに、その神から離れた報いは大きかったと言えるのかもしれません。 見方をかえれば、神から選ばれた者でも自殺するわけだから、だれにもその可能性はあるともいえます。 しかし、神がそれを望んだわけでなく、原因はやはりサウロにもとめられるでしょう。結論的に言えば、サウロが自己中心と言えることです。 最後は宿敵となった2代目イスラエル王ダビデと異なり、いつも神に帰ろうとはせず、逆に自分という枠に閉じこもり、自分で問題を解決しよとしたことにあります。 ダビデはいつも神を前においた。ひきかえサウロは、ときには神がもっとも忌み嫌う占い師にまで、自分の行き先を聞いたのです。神からはなれたサウロ、彼は最後は神に帰るべきだったです。神は待っていたのに。 |
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新約聖書に出てくる代表的な自殺者は、ユダである。イエスの十二弟子のひとりにえらばれながら、最後は、イエスを裏切り、首を括って自殺するのである。 旧約聖書のサウロ王の場合とおなじ疑問がでてきます。神であるイエスに選ばれながら、なぜそのような結果にならなければならなかったのでしょか。 加えての疑問は、同じく十二弟子の他十一人も裏切った。筆頭弟子のペテロなどは一度ならず、三度もイエスを知らないと裏切ったのに。イエスはえこひきをしたのでしょか。 ユダとペロの違いは、過ちを犯してからの態度にあらわれています。ユダは裏切りを後悔した。しかし、首を括った。ペテロはどうか。ユダと同じく後悔し、しかし、イエスの元に帰ったのです。 後悔を悔い改めとも言います。人間は誰でも過ちを犯します。しかし、その過ちを、前進のバネにできるか、後退の隠れ蓑とするかの違いに、その前途は大きく別れてきます。 人は過ちを理由に自己憐媚の殻に隠れてしまうことが多い。逆に、過ちをみとめるには、おおきな涙や苦痛がいります。しかし、その涙の向こうに、神が与える、新しい命の力が待っているのです。神は悔い改めをまっているのです。 |
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自殺の原因を、経済的な理由に求めようする人がいます。貧困が第一原因だと。しかし、日本の歴史上、現在がもっとの豊かな国家であるとは、歴史学者でなくともだれもが知っています。 50数年前の第2次世界大終戦直後が、現在とは比較にならないほど、貧困だったことは、高齢者ならだれもが、肌身で覚えています。そのときは、自殺者が現在より多かったのでしょか。 答えは、ノウ−です。なぜでしょか。貧困は自殺の主要な理由ではありません。むしろ、心の問題です。心の救いです。キリスト教会がはたす役割は大きいと思います。 日本のキリスト教会がこれから、なすことができる、可能性や使命は大です。教会が命の救いを可能にする、命の救いの場、逃げ場としての働きです。 ここに来なさいあなたの命の救い場がここにはありますと。しかし、積極的に手を貸そうとするキリスト教会があまりにも少ないのは、なぜでしょうか。 日本のキリスト教会は少ないといわれています。しかし、7000余もあるのです。命の救いの専門家である、牧師、伝道師が、日本に7000人以上もいるのです。 |
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たしかに、平成10年以降吹き荒れるリストラの嵐はすざましいものです。ホ−ムレスの数も都会では、凄い数を数えます。しかし、飢えを理由に餓死する人はごくわずかです。 飢えの苦しみなら、北朝鮮の方がすざましい。餓死者数百万と言います。しかし、それに絶望して自殺する人は日本よりは、はるかに少ないとも聞きます。 飢えも基本的にはなく、北朝鮮よりくらべものにならないほど、自由を謳歌している日本で、なぜこのように自殺者がでるのでしょか。 理由はいろいろあろうし、各個人により原因は異なるでしょう。しかし、その理由探しでなく、それを防ぐ対策、方法こそが最も大切なことだとは言うまでもありません。 その理由を探しているあいだに、自殺者は確実にふえます。聖書は魂と命の救いの書です。聖書には、一度死んで蘇ったイエスの復活の力があります。 命の復活の書が聖書です。だとすると、この魂と命の救いの書を自殺予備軍に届け出ることが、急がれます。とまれ、救いはここにあると。聖書には、あなたの救いに言葉がありますと。 |
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聖書を信じる人と自殺される方に決定的な違いがあります。自殺をされる方の殆どが、現在の苦しみ、苦痛、痛みが、自殺で終わるのだと考えている点です。死ねば終わり。死は無。死は漆黒の暗闇。 しかし、聖書には、人間は死で終わるのでなく、むしろそれから、第2ラウンドの世界が有ると説いています。聖書を信じる者は天国へ。信じない者は黄泉(よみ、陰府)の世界へ。 そして、神がなす、最後の審判を経て、第3ラウンドの世界、これは、永遠の世界ですが、地獄か、新天新地(本当の意味での天国)に行くとされています。 どのような死であれ、死は終わりでないと聖書は言います。むしろ、別の出発である。永遠の世界の旅立へ出発だと。すると、現在の苦しみや苦痛が終わるのでなく、逆に永遠に続くとすれば、どうなるでしょうか。 自殺は、苦しみは続きこそすれ、逃れる方法ではけっしてないのです。 天国には、現在の苦しみ、悲しみ、痛み、叫びがない、永遠の世界。苦しみ悲しみを逃れる方法は、天国へのパスポートを得ることのつきます。その方法は簡単。 イエスと共に旅立つ決意をすれば、そのパスポートはすぐ得られます。イエスと共に旅立つのです。 |
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聖書の神が定めるものを律法と言いますが、その一つが、モーゼをとおして言われたこの聖句です。「殺してはならない」は通常、自分以外の他者に対するものととらえられているが、厳密には、自分を含めた人間すべてが入ります。 自分を殺すことも、自殺も神により禁じられているのです。 聖書によれば、生命は神が与え、神が奪うとされています。人間の生殺与奪権は神にあり、人間にはないのです。また、聖書は神から離れたことを、罪と言いますが、神の言葉に逆らい、背いたまま、自殺するのは、文字どおり、罪のまま死ぬことになります。 自殺は人生の最後の神への反逆です。 しかし、神は人間を愛し、許した。そして、自由を与えられました。人間はすべてのことが自由になった。すばらしい神の愛です。 この愛から離れ、自分だけの世界に閉じこもり、その限られた世界の限られた自由を、本当のものと誤解してはなりません。 自殺のよる一時の安らぎを得たと錯覚したとしても、その代償は大きい。罪のまま、死ぬのか、罪許されて新しい世界へ行くのかです。 |
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いのちは地球よりも重いという。しかし、聖書は地球どころか、全宇宙よりも重く尊いものととらえています。聖書によれば、人間は偶然の産物ではない。 この天地を造る以前から、一人一人の誕生が計画されていたのですから。神から与えられたいのち、しかもそのいのちが永遠に、苦しみもなく、涙も、悲しみも、叫びもない天国を約束するために、イエスをこの地におくり、十字架をもって、一人一人の死んだ命=罪を買い取ったのです。 まさに、神はその痛みをとうして、それを実現したのす。 神の計画に従った行き方、これを使命というが、われわれはこの使命のために、与えられた目標に向かってすすむことです。 神ご自身が尊いと言われた存在、全宇宙よりも高価であると言われた存在、どうしてその使命を途中で放棄できるでしょうか。 クリスチャン作家であった、三浦綾子さん、死にいたる病のなかで、一生の多くを病床にありながら、最後は「わたしには、まだ死ぬという仕事が残っている」と最後まで、死もその使命ととらえた行き方もあるのです。 |
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どうしても許せない人がいる。あいつのことを思うと心が騒いで夜も寝ることが出来ない。いつかぶん殴ってやりたい。こんな相手がどんな人でも二三人はいる。こんな人に対しての聖書の言葉。 人を呪わば穴二つ。許せない人間を裁くと裁かれ、量ると量られる、自分で白黒をつけると、逆に自分も白黒つけられ、自分でこれくらいだと知ろうとすると、自分もされる。人差し指で相手を指すと、あとの三本は自分に向けられている。どうすればいいのか。 裁きは神に任せなさい、が聖書の立場。だれも裁いてはいけないし出来ないこと。みんな汚れている。みんな傷ついている。裁きっこない。神だけが最後の審判者。神だけが汚れていない聖なる方。 それより、人の振りみて自分を反省。許そう、受け入れよう。たしかに、相手も今頃は、自分のことを裁いているかもしれない。量っているかも知れない。だとすると、今夜はゆっくり眠ってしまおう。 |
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急いては事を仕損じる。急いではいけない。物分かり良さそうな老人や少しばかりの識者からよくでる言葉、ゆっくりしなさい。はたしてそうか。いつでもそうか。 この話はイエスがペテロを弟子にしたときのものである。漁師であったペテロは漁をやめたどころか、家庭を捨て、仕事を捨て、なにもかも捨てて、イエスのもとにきたのである。それもすぐにである。 人間は決断のときがある。漁師のペテロはこれからの自分の進む道をさがし求めていた。自分のこれからの仕事はこれでいいのだろうか。そしてイエスに出会い結論を出した。苦悩は随分したが、決断は一瞬だった。決断はゆっくりでなかった。制してはことを仕損じる、失敗すると決断したのだ。 イエスはペテロに言います「あなたをこれから、人間をとる漁師にしてあげよう」と。すぐに決断したペテロは12弟子になったばかりか、2千年後もその信仰が讃えられる偉大な信仰者として、いまも全世界に名が広まっている。 |
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花よりだんご。どんなありがたい話も腹がへっては、その話は聞けない。聖書を誤解している人の多くは、天国というあの世の世界、浮世をはなれた世界の書物だと思っているふしがある。聖書は非常に現実主義である。この世のことを無視して、神の国の話(聖書では福音というが)はしない。話する目線はつねに、聞く人々にあった。空腹との現実を無視しなかった。目をそらさなかった。それでなければ、どんな話もありがたい話で終わる。 私たちの計画や目標もそうだ。現実をはなれて空想、妄想では人の支持を得ることができない。今という現実を離れてはいけない。今見えている世界を無視できない。いい計画か、現実的な計画かの境目は、今という現実をどれほど認識するか、現実から逃げないかである。 求めている人の目線で見る。消費者の目線、国民の目線、は常に叫ばれている。それほど難しいのだろう。しかし、自分でなく、相手がなにを求めているかを、心に持てば目線はおのずと下がってくる。 |
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私は人生で一度も絶望したことがない、と言っているAB二人が話していた。 Aさん「だいたい望みを持つからいけない。望みは、むりな努力につながり、結局のところ身を破滅する。一番いいのは、無欲になること、それを空というが、その心をもつことが大切そういう悟りをえなければならんのだ。わっはっは!」 Bさん「絶望とは望みがなくなった状態ではないか。望みをすてなければ、敗北はない。ネバーギブアップだよ。」 Aさん「無心、無欲、そのために空なる心をもとめ、滝に打たれ、山中で、修行すれば空の心はえられるのじゃ。わっはっは!」 Bさん「聖書は難行苦行の悟りを必要としない。われわれは一生の戦いの連続。それも現実世界のなかで。野山へ逃避できない。だとすると、この現実の戦いをだれと一緒に戦うか。それは確かな方と共に戦うこと。神こそ我が助け、我が救い、だれが敵になろうと大丈夫。山中の大聖よりも、市井の小人だ。」 |
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Q「望みって見えないのじゃないですか?」 A「ここでいう目に見える、見えないは、先が見えるかみえないかをいっています。」 Q「先が見えるって?」 A「あなたの望みが、直ぐ実現できるような、仮に達成しても、あなた自身が満足できないようなことを、基準にしています。」 Q「もう少し詳しく説明してください。」 A「私たちは誰でも目標を立てます。もちろんそうでない人もいますが、立てることを前提に話しますと、目標が達成しても満足が殆どの場合しません。これは経済でも、健康でも、企業目標でも、達成だけでは満足しないのです。理由それは、精神目標の有無です。お金を得ることは同時にそのお金を十分使える心の状態にならないと、虚しくなるのは、日本のバブルがもっともよい手本です。健康も心の健康なくして、いくら体を鍛えてもバランスがくずれたらどうしょうもありません。聖書による目標は、見えない精神的な目標があってはじめて、望みたりえるとしているのです。」 |
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Aさん「世に勝つってどんなことでしょう」 Bさん「世の苦しみ、患い、悲しみ、絶望そんなことをすべて乗り越える力があることをさすのではないでしょうか」 Aさん「世のなかにそんな人いるの?」 Bさん「残念ながら、そんなに強い人はいないと思います。しかし、それを宣言した方はいます。それがこの聖書の言葉のイエスです。」 Aさん「イエスは十字架にかかって殺されたのじゃないですか?」 Bさん「しかし、イエスは三日後によみがえりました。それを信じるかどうかは、自由ですが。世に勝つ最も象徴的なことは、死を乗り越えることです。死をのりこえたイエスだけが、世に勝ったと言えるのです。」 Aさん「理解できません!」 Bさん「理解でなく、信じることです。世に勝ったイエスと共に此の世を歩めば、怖いもんなしです。勝利者とともに歩めば勇気が出ます。要はだれと共に戦うかです。一人で戦うから不安になるのです。」 |
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ユダヤの格言に「してしまったことを悔やむより、したかったのにしなかったほうが、悔やみが大きい。」というのがある。わたしたちは希望をもってスタートしても、いくつかの失敗で打ちのめされてしまう、経験はだれにである。 しかし、なすことによる失敗と、なさなかったという未練とを天秤に懸けることはできないというのだ。失敗には、教訓というお釣りがくるが、未練には、なにも残らない。残らないどころか、可能性という無限の宝も失うことになる。 聖書の神は、無限の可能性を人間に約束した。希望という可能性は、まずなにかをなすことを第一歩とする。それが、未来に進歩をもたらすのか、過去に悔やみのみ残すかの別れ道となる。失敗も経験となり、それが成功の肥やしになるのである。 世界のあらゆる進歩は失敗の上にそびえ立っている。だとすれば、個人の場合はなおさらのことである。成功とは、段階を追って達成する過程とするなら、その階段の何箇所に失敗という踊り場があるのだ。 |
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A「望みが小さくはありませんか?」 A「大きければよいのでなく、あなたにとってその望みは、限界をつけたり、限定をした望みでないかどうかですが。」 B「私は、すべての望みに裏切られました。ですから、望みをもつことが怖いのです。」 A「そうそう、そういう事です。今まであったこと、経験したことから、もう望みは自分には必要がないんだって。」 B「どうすればいいのですか?」 A「聖書はできるかどうかよりも、したいかどうかを聞いています。本当が自分がして楽しいことを探すことじゃないですか?。想像に蓋をしないこと。このことをするために、自分の命があるぐらいまでいければ、幸せだけど、仮にそうでなくとも、本心からなにがしたいのか自分に問うことが必要じゃないですか。建前(たてまえ)さんじゃなく、本音(ほんね)さんに聞いてみたら。」 |
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イタリヤのパレトが提唱した80対20の法則というのがある。少数の20に的を絞り込み、重要な80のエネルギをつぎ込めば、経済効果のみならず、人生の成功の効果に役立てとしている。 人生は何を目標とするかで、その価値はおおいに変わる。目に見えるところを足場とするか、そうでないかである。見える世界から出発をすれば、目標は限定されてしまう。見える世界の現実は、目標や夢を押しつぶす力が十分すぎるほどあるからある。聖書の世界は見えないことから出発する。 仮に80対20に応用すれば、目標をたてる場合、80の目に見えている世界に頼むのか、20の見えていない世界に的を絞りこむかである。現実を見ることは時により、現実から逃避しないことを意味するだけ場合がある。80という圧倒的多数の現実の情報に埋没するのでなく、20という、見えないがその可能性に懸けるかである。聖書の信仰は見えないところに、よって立つ、楽天の法則なのである。 |
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「人は転ぶと、まず石のせいにする。石のせいにする。石が無ければ、坂のせいにする。そして、坂が無ければ、はいている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない。」というユダヤの格言がある。それは、人間の自己中心をうまく表現されている。 しかし、単に失敗を認めないから成功しているわけでもない。失敗を認めず、成功するまで、あきらめず、目標に向かって、一歩一歩前にすすみつづけたというのが正確な表現だろう。 |
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心を楽に、これは聖書を信じなくても、ごく当たり前に言われている、この世の格言である。特別、聖書の言葉を借りなくとも、充分間に合っていますとのこの世の声が聞こえてきそうである。しかし、この世の言葉と聖書の言葉が違うのは、どこで、又、なぜなんだろう。 それは、心楽しく誰と、毎日宴会できるかである。人間どうしの交わりももちろん楽しい、親しい友との交わり、愛し合う家族の交わり、大いに結構、しかし、その宴会の主役はだれか、聖書がいう宴会の主役は何時も神である。神を交えた宴会である。 神がいるから、心楽しいのである。心配の原因は神から離れているからである。聖書に出てくるヨブという人物は、当時地域隋一の大金持ちで毎日、宴会を開いていたが、神から離れていたので、不安で心配の毎日だった。宴会に主役がいなかったからだ。しかし、それを理解してからは、文字どおり、楽しい宴会を毎日開くことができたのある。 |
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日本人が、元旦、1月1日に、神社仏閣に初詣する人は、数千万人の人だという。この数字をみて、日本人が宗教心があるのかどうかは、即断できないが、確実に言えることは、この数千万の人が、聖書の神を信じていないことである。 その理由の一つにいつもされることは、聖書は外国の宗教だということである。日本人の文化伝統に根ざしていないと。しかし、この聖句は、聖書のなかの、ノアの箱船の箇所、人類がノアの家族以外皆死に絶え、新しく出発した、記念すべき日、1月1日の記事である。すなわち元旦のことある。 聖書は3500年前から1月1日は、特別の意味をもって、新しい出発を説いている。1月1日を特別な日として位置づけている。聖書の考えや文化が日本に入ったのは、1000年以上も前とは、多くの学者に実証されている。日本の文化伝統に根ざさなかったのだろうか。知らないだけでないか。元旦は日本人の文化伝統の先祖帰りの出発の日なのかも。 |
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神は結果でなく、それがどのような方法でなされたかを見られるのが、この聖句である。モ−ゼは水を出した。しかし、神はその結果ではなく、神がその命じられた方法=信仰を見たのである。 だれでも、まず結果を気にする。我々の社会はまず、結果である。その成果である。特に企業社会ではそうだ。まず、売上、収益ありき。それがなければ、オ・ルナッシング。そのプロセスがいかにどのようなものであれ、結果ゼロはすべてゼロなのだ。 しかし、聖書の神は、別の点からの見方=生き方を要求する。信仰である。信仰とは、神の要求に従うかどうか、見えないもの、見えない世界に向かって忠実かどうかである。 だれでも、結果が欲しい。たしかに大切だ。しかし、神との関係で、神を見上げ、その命ぜられたことだけを忠実かどうかは、結果を出す以上に難しい。大変難しい。しかし、神は全能者である。すべてを成しうる。全能者であるが故その結果でなく、その結果に向かうプロセスが大切にせよと命じられるのだ。 |
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聖書の一番最初の言葉。聖書は旧約聖書、新約聖書あわせて66巻、1189章の膨大なものだが、その最初に最も重要な結論が書かれている。終わり良ければすべて良しだけでなく初め良ければすべて良しでもある。 聖書を前にして、この言葉をもって、聖書の扉を開くのか、そこで引き返すのかの選択がせまられている。同志社大学の創設者新島穣はこの言葉で聖書を感動して以後キリスト者としての人生を歩んだ、と伝えられている。あまりには、多くの意味が一つの言葉の中に込められている。 祝福の言葉ととるか、独断の言葉ととるかは各人の自由、各人の選択にまかされている。扉の向こうには、真理の大海原があるかもしれない。 しかし、今自分の手の中にある真理を握りしめ、その扉を開けず立ち去ってしまうこともあるかもしれない。選択は自由である。しかし、聖書が神の存在と行いをなんの説明や証明もなしに悠然と宣言する姿に、ただ唖然とするのは、どうしてだろうか。初めよければ、すべて良しである。 |
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神が天地を6日で創造した後、最初の言葉。なんと不思議な響きを持つ言葉だろう。非常に良い世界、古来人間は理想の世界をもとめ、いろいろなユ−トピア、理想郷を夢みてきた。 しかし、現実の世界はあまりにも、汚れ、乱れ、貧困と差別が満ち満ちている。また、理想に目を向けようにも、毎日の現実は非常に過酷だ。この乖離をどのように埋ればいいのだろうか。理想と現実のどちらに目をむければいいのだろうか。理想への逃避か、現実への埋没か。 聖書の言葉は、神が作った世界としている。そして、神の計画には、極めて良い世界があり、再びそのような世界、「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去った」世界が来ると約束している。それを、聖書は、天国と言う。だとすると、天国を得るために、我々はなにをしなければならないのだろうか。 言えることは神のマスタ−プランに目を向けることである。神は言う。人間がつくったマスタープランは皆、失敗したではないかと。 |
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人間がなにから生まれたかについては、進化論と聖書のふたつの立場がある。アメーバーから猿にそして人へと進化したことを認めるか、聖書を認めるかである。 人間の体は約80%は水で、あとは淡白質やカルシュウムで出来ていることは、中学の理科のテキストにも書いてあるこれらは、土から排出できる。また、人は死ねば土のちりになるのも、理解できる。あとは、理性や感情の働きをする心はどうなったかである。 進化論では、アメ−バからこころができるまでにどれくらいの時間がかかるだろうか。50億年から百億年に説を変更したが、実は千億年でもまた、兆とついても無理であると言われている。聖書では簡単に説明しているがどちらの立場をとるかである。 そして、進化論も聖書も行き着くところはどちらを信じるかどうかである。それを信仰と言うが、進化論は1859年ダウーインに始まる新興宗教である。聖書は、3500年前からある。信じることは選択と同じ意味をもつ。 |
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聖書の言葉では、7日目を安息日という。1週間は7日の1サイクルとし、聖書を信じない世界の人も等しく受け入れ、したがっている。むかし、ソ連共産国家の独裁者スターリンはこれを変えて、1週間を10日とする命令を出したが、自分をふくめ国民の調子が奇怪しくなりすぐに命令は撤回された話が残っている。 聖書は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。6日間、働いて、あなたはすべての仕事をしなければならない。しかし、7日は、・・あなたはどんな仕事もしてはならない」としている。 安息日は勧めであると同時にプレゼントである。これを無視して、働きずめか、休日にも接待ゴルフに明け暮れた日本の企業社会が今どうなっているかは、ハッキリしている。 安息日は、体と心の休息日である。反省と感謝の日、補給と次なる計画の日、働くことと同じく休息も重要な日、前進だけで、立ち止まることを知らない人間は、祝福を得ることはできない。ラッキ−セブンとはこの日のことなのだ。 |
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「息子が結婚をするときは、花嫁に契約書を与え、母親に離縁状をださなければならない」とユダヤ人の格言がある。子供が結婚をするときは、親は同じ家に住まないことがルールとなっている。 ここに家族の誕生をみることができる。1は父母をはなれ、即ち独立のための分離。2は男女の結合、最小単位の人間関係の成立。3は夫婦の成立条件。二人の一心同体。である。 1は近頃では、成人になっても親離れ、子離れ出来ない親子関係が見られるが、家族を形成するための心構えである。2は家族は、国や社会のなかの最小単位の集団、それは人と人の関係。神は女を助け手として造られた。3、夫婦の条件は体のみでなく心も一致することがもとめられている。 男はともすれば、物質のみを満足を与えることが、その役割と誤解しているが、こころ、相手の感情、理性を理解し、受け入れなければならないことを、聖書は教えている。夫婦が集団の始まり。家族が国家の基本となるのである。 |
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聖書を信じない人でも、エデンの園のことは知っている人は多いだろう。神から食べてはいけないと命ぜられた木から実を食べ、エデンの園から追放されたことを。聖書によれば、これで人は「罪人」となったとされる。日本人の多くが、キリスト教に関心や興味をもちながら、聖書を手にしないのは、この「罪」という言葉である。なぜ、罪を犯していないのに罪人と呼ばれるのかと。 罪とは神から離れることの、別の表現である。離れたのは、神でなく人である。人の方が神を無視し、適当にあしらい、ある時は冒涜もした。そのことを一番知っているのは、だれあろう自分自身である。神と結びついていると誰が言えるのだろうか。人間はみな神から離れている。その点から、人間は皆、罪人である。 神は叫ぶ。あなたはどこにいるのか。その声を今までのように聞き流すのも自由。無視しても災いも直ちには来ないだろう。神は人間に選択の自由を与えた。しかし、神はいまも叫ぶ。あなたはどこにいるのかと。 |
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ユダヤの諺に、結婚は恋愛の目覚まし時計というのがある。結婚は男女が一心同体となり、共同生活をはじめるのである。また聖書によれば、彼(アダム)のあばら骨を取って女(エバ)を造ったとある。そして、男にふさわしい助け手として、できたのである。 男はちりから、女はあばら骨から、したがって材料が違うのだから、当然それぞれは、異なる性質、体質、気質がある。しかし、互いにそれを理解するのには、時間が必要である。その時間を与えるのが、結婚である。結婚を人生の墓場と捉えるか、出発と捉えるかは、結婚前に全部知ってしまったと錯覚するか、これから全部を知ろうとするのかの違いである。 ちかごろは、結婚前に、性関係、婚前旅行、同棲生活、はては妊娠まで、これでは結婚してから何をするのですか、と問いたくなるのは超保守主義の考えなのだろうか。結婚前とその後では違うのは当然なのだ。結婚指輪はユダヤ人が考えたものだが、リンクは結婚が非常に長い時間を意味しているのである。 |
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聖書を旧約聖書、新約聖書は呼ぶのは、イエスの誕生の前後に、前を旧約、後を新約、としていることは常識なのだが、とりあえず確認しておこう。したがって、聖書の神は、契約の神と言う場合がある。 そこで、契約だが、法律的には非常に簡単である。申込みと承諾の2つ言葉が合えば成立する。ちなみに、聖書では、決め事を律法というが、法律はそこに語源がある。法律は決め事の集大成である。そして、法律を逆さに読めば律法である。また、法律の根本は契約である。 契約は言葉で成立するが、この言葉がじつは日本人は非常に曖昧で、要領が得ない場合が多い。外国の方が日本語を理解する上で、非常に時間を割くのはこの曖昧さ故である。 聖書の神は言葉の神である。したがって、言葉のはっきりしない日本人には、本質的に聖書がとうざかるは無理からぬことかもしれない。しかし、国際化は今や常識、そのなかで契約の意味を考え直すことも、常識かもしれないがまずは言葉の曖昧さを直すことからかもしれぬ。 |
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結婚の鎖はとても重い。時には男女二人だけでなく、子供もいっしょになって運ばねばならない、というユダヤの諺がある。聖書の言葉は、有名なノアの箱船の箇所である。神の怒りで、ノアの家族以外、すべての人はひとまず水の中へ、すなわち死んでしまった。神に対する忠実と敬虔な心で仕えた家族を残して。 しかし、男女二人の結びつきが、子供を産み、二人はより多数の人間関係を生み出すが、出発は二人である。そして、結婚は鎖、それを黄金の鎖とユダヤ人はいうが、日本人なれば、さしずめ赤い糸で結ばれたというのであろうか。 神は新たな人間の出発を、一組の家族から見本を見せられた。結婚は人間の共同生活を営む上で、重大なことである。そして、子供は欠かせないし、子供を育てていくことは、両親の義務と同時に喜びでもある。 近頃は、家族の崩壊がで叫ばれているが、家族こそが、社会の出発ならば、もう一度、各人にとり家族はなにかの意味をそれぞれが問いなおしてみる必要があるのではないだろうか。 |
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ユダヤ人には、情熱のために結婚しても、情熱は結婚ほど長続ききしないという結婚感がある。これをさらに、金と銀は、火のなかで精錬されてから、はじめて輝くと説明している。いつまでも、熱にうかされていては、実生活に役立たない。結婚すれば、冷えた金や銀の容器のように、冷静になれば、着実な生活がおくれることの警告としていわれている。 ユダヤ人は神の恵みは妻帯者のみあたえられるとしている。独身者は半人前なのだ。結婚は聖書では、聖なる義務ととらえている。ユダヤ人の言葉のヘブライ語では、結婚は聖なる事と同じ意味で使われている。 聖書の神は結婚によって、大いなる祝福を約束している。聖書の神は契約の神と説明したが、神と人間の契約が天と地での基本ならば、男と女の結婚契約も、社会関係の基本である。 二人が共同生活を営みが、神の祝福、恵みの約束とすれば、そこを出発点として、すべての営み、仕事や社会的活動があるのである。したがって、出発は家庭なのだ。 |
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日本は世界では名だたる長寿国である。それも超と付くぐらいだそうである。あと数年すると平均年齢90歳になるとも言われている。 明治の初めの50歳前後と比較すると驚くべき、長寿ぶりである。しかし、聖書は90歳の上を行く120歳というのだ。現に日本で最高令者は120歳を越えた女性の方である。そうすると日本にも平均年齢が120歳時代がくるとだれが否定できるだろうか。明治の初め、100年後の日本の平均年齢が80歳をこえるとはだれも予想できなかったように。 長寿化は喜ばしいことである。しかし、問題も多くある。それは日本人の高齢者は、病気勝ちの方が多い、長生きは、元気で長生で、そして加えて長患いなどしたくない。だとすると、聖書は「元気で長生き、ぽっくりと」が原則かもしれない。 聖書の登場人物は、平安な老年を迎え、長寿を全うして生き絶えて死んだ、とある。人は始めがあり、終わりがあるが、始めは用意できない。しかし、終わりは、用意できる。長寿を全うした人生をおくりたいものだ。 |
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人は帰るところと、出て行くところがなければならない。近頃のリストラという首斬りで行くところがなくなった人達の悲劇は毎日新聞紙上を賑わしている。加えて、ローンが支払えなくなり、家を手放す悲劇も同様に紙面にあふれている。文字どおり、帰るところが無くなり、行くところがなくなったのである。ホームレスの人達は、都会の公園等にあふれている。 聖書に登場する、アブラハムも、同じ立場であった。彼は帰るところを捨て、未だ見ぬ地へ旅立ったのである。ただ、神の命令に従って。単なる転勤や単身赴任でない、過酷な命令である。しかし、彼の素晴らしさは、単純にその命令に従ったことである。彼は神を信じた。神の約束を信じた。その結果として、彼は神から大いなる祝福をえることになる。 われわれ一人一人にこのような、命令が下されればどうするだろうか?それを使命と人間社会では言うが、その使命、どこへ行くか分からない、帰るところも保証されないそんな使命に従えるか。使命とは保証のない夢なのだ。 |
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彼とはアブラハムを、主とは神である。アブラハムは聖書では信仰の父と称されている。それも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界の3大宗教においてだ。 たしかに、アブラハムは信じることにおいては、人並み外れていた。神の約束により、100歳に自分の子ができることを。普通の人間ならば、生きていくこともやっとの歳に、子供が出来るなどどうして信じることができるのだろうか。しかし、彼は信じた。そして神はそれを見て、義として良しとされたのだ。 アブラハムが信仰の父と言われているが、実は特別な働きがあったわけではない。聖書には、特別な働きがあった登場人物であふれている。しかし、アブラハムは、ただただ、神を信じた、見えない神を。信仰とは、見えなくとも信じるかどうかである。そして今は見えなくとも信じる、ここに大いなる力があり、そこに大いなる力の源泉がある。神は問う。あなたは見えなくとも信じることが出来るのかどうか。祝福は見えないものから始まるのだ。 |
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現在の世界は、ある意味で宗教戦争の世界版を見るようだ。9月11日のアメリカのニューヨーク、世界貿易センタービルへのテロ行為は、イスラム教からの、キリスト教、ユダヤ教への挑戦とも見ることができる。中東での争いもそうである。宗教戦争は確信犯同志の争いだから、手がつけられないとある人達はいう。 聖書はどう言うか。実は、聖書のこの言葉は、イスラム教の始祖である、イシュマエルに送った神の言葉である。私とは神であり、あの子とはイシュマエルである。開祖マホメットは、イシュマエルの血を引き、また旧約聖書の影響を受け、コーランを書いたとされている。 イシュマエルは、聖書の約束に従って、アラブ民族の父となり、アラブ民族は大いなる国民とされていることは今日見るとおりだ。そして、このイシュマエルの父はだれあろう、アブラハムなのである。 しかし、正妻の子イサクに、アブラハムの後継者の地位を譲らねばならなかったのである。イサクとイシュマエルは、義兄弟なのだ。だとすると、歴史を経て、兄弟喧嘩を我々は見ているのだろうか。兄弟は他人の始まりか。しかし兄弟はやがて手を結ぶのだ。 |
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聖書は人間の成功について秘訣を書いた書である。そのなかで、「成功」の文字も何箇所かでてくるが、その一つがこの個所である。アブラハムの曾孫にあたる、ヨセフに対して、そして彼が大成功する物語が書かれている。 聖書による成功の秘訣は、神とともになすことと、説かれている。人間はどうしても、自分の力で、我力で成功をすることに夢中になるが、聖書の道は別である。 神は無限の力をもっておられる。その力にすべてをまかせることが、秘訣で、またそれが条件だという。したがって無理がない。また、一見無駄のように見えても、最後は目標に達するのである。 自分の力にのみ頼らない。したがって自分に対しても過信しない。あくまで、成功の道は、神とともに歩むことである。聖書の神は、インマニエルとも言われている。それは、共にいる、共に歩むという意味があるが、無限の力をもっている神をともに歩めば、恐れることなどないのである。 |
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成功のために必要な知識や知恵を得るためになさねばならないことは、学びではない。 それは、2の次、または2つ目の条件である。まず、しなければならないことは主(聖書の神)の前で、恐れること、神への畏怖のこころである。人間ではなしえない事柄が余りにも多すぎることへの、人間のあまりにも小さな存在であることへの自覚である。神の偉大さを知ることが先ず始めなければならないのだ。 主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ(2−6)。ともいう。成功のための知恵を得ることの方法がある。御口とは、聖書のことばである。聖書を読み、味わい、その言葉に瞑想の時間をかけるこでとである。ちなみに、聖書では知識とは、神を知ることをいう。また神に近づくことだという。 古来、人間は自分を知ることのみに時間をかけ過ぎた。しかし、主(聖書の神)をどれでけ知っているだろうか。 |
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聖書の成功の秘訣は、あくまで自力、我力を排することである。己を空しくする程度ではない、己が無くなるレベルである。人間主体ではなく、神主体なのである。 人間本位の人間主義ではなく、神の下にある人間主義である。自分の悟りとは、海を前にして、その海水を自分の手中に入れたような程度のものだからである。 知恵の初めに、知恵を得よ(4−7)。人間が知恵をもつには、通常まず経験や先人の知識の学習から始める。聖書は、まず神がなんであるか、神を知ることが始めであるとする。知恵を得ることは、人間の頭を働かせることでなく、聖書の神と自分との関係を知ること、正すことにあるとする。神あっての自分の存在、これを確認すること、なんとも味わいのある聖書の\言葉である。 ヒュ−マニズムの名の人間の傲慢と不遜は、ただ神の前で、謙遜と遜りに変えねばならないこころを尽くす、全身全霊で神を知ることである。 |
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聖書は成功の秘訣は家庭を守り、妻を愛する事だと何度も説いている。これがいかに難しいことか。この箴言の記者のソロモンが、余りの富を持ったが故に、多くの妻を持ち(1説には、数千人とも言われる)それが彼の子の時代に影響を及ぼし、父ダビデが築いた王朝の崩壊を招いたことが、聖書に載っている。だとすれば、なんとも意味のある言葉である。成功の美酒は、妻とともに味わうものなのだ。 あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない(7−25)。聖書は姦淫をしてはならないと戒めている。モ−セを通してが神から人間へと与えられた10戒の1つでもある。父ダビデと、ウリヤの妻だった母バテシェバとの姦淫によって出来たがソロモンである。 ダビデは悔い改め神からの許しを得るがその災いは、3代目のソロモンの子達に及ぶ。姦淫励賛、賛美の現在の日本、人工中絶大国の日本、が犯している罪は、日本国家をも巻きこむ悲劇の始めではなかろうか。 |
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聖書は成功の秘訣は勤勉であると説いている。イソップの童話にも出てくる蟻の姿は、人間への警鐘でもある。聖書によれば、万物の支配者としての地位を与えられたにもかかわらず、蟻から教えを請わねばならないとは。このあたり前の言葉が日本で失いかけてきて、何年になるだろうか。 勤勉が家庭を、企業を、国を守るのだ。勤勉とは、コツコツである。1歩1歩前進である。秋の収穫の目標に対して、夏、食物を確保し秋、刈りれで集めるのである。 「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすれば、パンに飽き足りる。」(20−13)。人間だけが、自然の流れに反して睡眠できる唯一の生き物である。惰眠をする者や深夜族に成功者は見当たらない。早寝早起きこれが古典的だが、聖書の成功の秘訣でもある。 |
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類は友を呼ぶ。その人を見たければその友を見ればわかる。おこりっぽい者は感情を支配できない者である。感情を支配できない者は感情の激流に流されるだけである。そんな不安定な人との交わりを拒否しよう。自分もそうならない為である。そんな交わりより、聖書の神との交わりが最も大切だから。 「大酒飲みや、肉をむさぶり食う者と交わるな。大酒飲みと肉をむさぶり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぶる者ぼろをまとうようになるからだ」(23−20・21)。 酒飲みや大食漢で成功者は探すのが難しいだろう。酒飲みや大食漢は、お金や時間の浪費しだけでなく、体や心を傷め、蝕む。それより聖書の神との交わりを第1にしよう。そのためには、お腹と頭をある程度空腹にし、飢えることだ必要。飲み食いの友ではなく、共に夢をみる友を作ろう。夢は友を呼ぶ。 |
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世界一の成功者ソロモンはこの心構えで、成功した。計画すなわち目標設定は、この世の成功者の必須条件と言われている。しかし、聖書による目標設定は、人間が自分のために、自分の満足のためにではなく、それが、神の御こころにかなっているかを唯一の基準だする。神の計画、神のマスタ−プランだけが、最終的には実現するという人間の謙遜な思いが、目標設定になくてはならないのだ。 「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかれる」(21−2)。自分の道、プランではない。そのプランを生み出す心、心の値打ち、が大切なのだ。 世の中の目標設定は、他と比較して、どれほど大きく、どれほど素晴らしいかが基準である。聖書による目標を、「あなたのしようとすることを主(聖書の神)にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(16−3)の基準とするのである。「主はすべて心おごる者を忌みきらわれる」(16−5) |
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「心の楽しみは良い薬、たましいの憂いは骨を腐らせる」との別の聖書の訳もある。聖書に出てくる成功者は、楽天家である。聖書の楽天は感情や気分の尺度ではない。こころの底からの安心感である。すべてを神に委ね任せる信頼感である。心配するな、特に明日のことは。 愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。成功の秘訣は、感情のコントロールである。自分の思いのままに感情を外に出す者は、神は喜ばれない。怒りのあるうちは神の声が聞こえないからだ。 人間だけが、笑うことができる生き物である。笑いは神から与えられた特権である。大いに笑おう。自分を笑い、他人の祝福を大いに笑おう。動物も泣くことはできるだろう。しかし、笑えない。心の陽気さは、顔に、体に、そしてこころに現れる。笑いは健康のドリンク剤である。 |
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聖書による成功の秘訣は、難行苦行をしないことである。一部の宗教は、難行苦行による、悟りを得ることを目標とするが、聖書は、100%ナンセンスとする。なぜか。そんなことをすればするほど神から離れるからである。悟りイコ−ル自分が神になる、これを聖書は偶像といって、もっとも忌み嫌う。なさなければならないのは神を恐れ、神を知ることである。 「神のことばは、すべて純粋。神はより頼む者の楯」(30・5)。神のことばとは聖書のことばである。ソロモンをはじめ成功したユダヤ人は、朝夕、聖書(旧約聖書だが)を繙(ひもと)ていた。特に安息日といわれる休日には。そして、そのことばにしたがった。 アメリカの大統領アブラハム・リンカーンは、大統領執務室で、いつも聖書を繙いていたとか。大統領執務室で不倫をはたらいていた、某大統領もいるが。 |
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「どちらですか???。しかし聖書の解答は、前者には、「あなたも彼とおなじようにならないためだ」とあり、後者には、「そうすれば彼は、自分を知恵ある者と思わないだろう」と理由を述べている。 すなわち、愚かな人(決して見下げているのではない、これも肝心)に調子を合わせてはいけないのだ。調子合わせの上手な日本人への特別な格言である。聖書は柔軟な心、自制力あるこころが要求する。 「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(25−28)。自制心が大切。成功者や賢者と言われている人も同じように説く。しかし、聖書は神の前に謙虚に立つことが、自分を制する秘訣だとする。自分でがんばって自制しても、すぐ化けの皮が剥がれるから。「自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者はすくわれる。」(28−26) |
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「事実を知らず、物事を決定するとは、なんと恥かしく愚かなことよ」と別の訳で言う。成功には、五感の一つの耳の働きが欠かせないのだ。 口は一つだが、よく聞くために神は耳は二つ与えたと言うのは本当だろう。聞き上手は人に対してなく本当は神の声を聞かねばならない。神の声、それは聖書の言葉である。 「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」(10−19)聖書は成功者は、耳だけでなく、口のはたらきも重要だとする。「正しい者の口はいのちの泉。」(10−11)。「正しい者の舌はえり抜きの銀」(10−21)。「正しい者の口は知恵を実らせる。」821−31)。 正しいとは、聖書を知る者であり、聖書に耳を傾ける者であり、聖書によって、自分の口を制することができる者である。 「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」(12−18)とも言う。 |
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「七転八起」は聖書から来た言葉である。しかし、七回しか倒れていないのに、なぜ、八回も起き上がらなければならないのか、考えよう。ヒントは聖書の言葉にある。「主は(神は)かがんでいる者を起こされる。」(詩篇146−8) 「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」(30・8)これもなぜか、聖書のことばがつづく。「私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。 また、私が貧しくて、盗みをし私の神の御名をけがすことのないために。」(30・9)いつも神の前に遜る(へりくだ)ること、謙虚になることである。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。 それを告白して、それを捨てる者は、あわれみを受ける。幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る〕(28−14) |
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『このような言葉が聖書のなかにあるなんて、信じられません。』『伝道者の書の記者(著者)が、「箴言」の記者とおなじのダビデ王の子供のソロモンなんて、信じられません。』そんな声が聞こえそうだ。 ソロモン王は、当時世界一の大成功者、資産家、名望家で、その上、知恵に優れた人だった。その人の口から、こんな、言葉がでるなんて。しかも、聖書の真の著者が神である、だとすると、よけいに分からない。 「空」とは文字どおり、むなしいということである。あきらめである。ご丁寧にもこの箇所だけでなく、35回も出てくるのだ。伝道の者の書は、人生のあきらめを説いた書なのか? 聖書は人間の進む道を示し、人間がたどり着かねばならない道しるべを示した、神からのプレゼントではなかったのか。神からそれぞれの選んだ人間をつうじて語った言葉(むずかしくソロモンへの啓示という)でなかったか。 しかし、この伝道者の書を最後まで読むと、この冒頭の言葉の意味が分かるようになっている。聖書は66巻が、統一性ある書物、調和のある書物である。全巻に流れるのは、やはり、人間の進む道を指し示している。 この書の最後は「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12・13)と、結んでいる。 |
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これも聖書の言葉である。しかし、聖書が別の箇所で、一貫として教えることは、勤労の尊さであり、勤勉のすすめでなかったのか。 この言葉は、ソロモンからでている。ソロモン自身、聖書の『箴言』の箇所で、「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方をみて、知恵を得よ」(6・6)と、何度も働くことへの尊さを解いている。そうすれば、この言葉をどのように、理解すればいいのだろうか。 これは、人間の欲望に対するブレーキである。人間の底知れない欲望に対する警鐘である。欲望には、限界がない。果てがない。そのことを、一番良く知ったのはだれあろう、ソロモンである。 ソロモンは、当時世界一の金持ち、それどころか、世界一の知恵をも持っていた。鬼に金棒である。しかし、果て知れぬ人間の欲望に目を留めると、そこに恐ろしいほどの底無しの世界を見たのであろう。もっとも良きものと見た者が、最悪の世界をも見たとも言えるのだろうか。 働くことも良し、富を得ることも良し、しかし、どんなことにも限界があるのだ。限界があることを知れ。そうでなければ、無限の底無しの世界に入るのだ。欲望を完全に満たすことは出来ない。欲望に制限を設けよ。これが、ソロモンの、いや神からのメッセージなのだ。 |
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なにか、詩の一か所を読んでいるような、響けがある。現にこの箇所から、世界的に皆んなに口ずさまれた歌ががあるとか。 どんなことにも時があり、何かをなそうとする場合にもそれにふさわしい時がある。しかし、その時、グットタイミングを得るにはどうすればいいのだろうか。 それは、祈りである。すべてを支配するのが神である。時間もだ。そうすると時間の支配者たる神が、グットタイミングを知っているのは当然である。神に聞くこと。一番良い時を。 祈りで、グットタイミングを求めることである。早すぎず、遅すぎず、もっとも良い時をでる。神の前で静まること。焦らないこと。 あるクリスチャン実業家が決断を求められたとき、祈る。「何時なすべきでしょうか。お教えください」と。あるクリスチャンの主婦が何かを決めなければならないとき、祈る。 「教えてください。最も良き時をお示しください」と。あの、リンカーンも大統領執務室で何時も、祈り求めたそうだ。「グットタイミングをお知らせください」と。 |
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優秀な民族を挙げてください、と世界中の人に聞けば、どの国の人もユダヤ民族を、その一つあげるだろう。好き嫌いは別としてユダヤ人の優秀さは、歴史的折り紙付きである。だから、嫌われるのだとも言われる。優秀さの秘訣はなにかと言えば、この聖句を実践しているからである。 ユダヤ人は12歳になれば、「バルミツバ」という儀式を行う。いわば成人式である。それは、旧約聖書の最初の5巻、特にモーセ5書とか、トラーとか言われる部分だが、それになにが書かれてあるかを、親、親族の前で披瀝しなければならないとされている。 書物の分量もさることながら、その内容となると、かなりの学習が必要である。並大抵のことでない。しかし、ユダヤ人の子供たちは、一応にその儀式を通過する。民族の伝統である、受け継がれた文化なのだ。 聖書の第1巻、創世記の巻頭分は「初めに、神が天と地を創造した」(1-1)とある。民族の優秀性は、幼い時から、神を知っていることにある。 |
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聖書の登場人物は、何人いるのかわからないが、最も悲惨な登場人物の一人は、ヨブ記の登場するヨブであることは、間違いないだろう。 彼はウツというところの、当地きっての大金もちだった。家族にもめぐまれ、10人の息子娘がいた。ところが、ある時、それらを一瞬にして失ってしまう。それどころか、自分自身も全身悪性の腫物ができてしまうのです。文字どうり踏んだり蹴ったり、万事休すの状態になるのです。 しかし、聖書には、ヨブは「潔白で正しく、神をおそれて、悪から遠ざかっていた」と書かれた人だったから、一層なぜ?と、問いたくなるのは当然である。 聖書には、その理由が2つ書かれているが、その一つがこの聖句である。それは、彼自身の口から、言うように、この聖句にはっきりしている。 「私の最も恐れたものが」とあるように、裕福なヨブ、家族に恵まれたヨブ、信仰深かったヨブ、しかし、内心は、恐れていた。いつかこの祝福が、豊かさが消えていまわないかと。実は内心はビクビク。 潜在意識というのがある。建前でなく、本音の世界。これが実は本心の世界。いくらうわべで、良いことを言い、もっともらしいことを口にしても本心がものをいう、その世界。これがヨブに実現したのだ。彼の本音が実現したのだ |
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ヨブ記の登場するヨブが聖書では最も悲惨な人の一人だろう。彼は信仰の人だった。義人とも言われた。この聖句は、彼に起こった災難、すべての家族、財産を失ったときに彼が、神に向かって言った言葉である。彼は「神に愚痴をこぼさなかった」と聖書に書かれている。みやげた信仰、あっぱれな信仰である。 では、何故、彼はこのような災難に遭遇するのか。むずかしく、義人の苦難の問題とも言われている。 これは、聖書のいう信仰とはなにか、という問題とも言い換えることができる。我々は何故神を信ずるのか。いや、神を信ずるということはなんなのか、である。 聖書以外の神の信仰は、御利益信仰が基礎になっている。あれがあるから、神を信じる信仰、なになにがあるから神を信じる信仰である。家族が豊かに守られているから、神を信じる。金が富が与えられているから、神を信じる。 しかし、それらが全部取られてしまったのちもなお、神を信じることが出来るか、何もなくなっても神を信じるか。ヨブは、この過酷な、挑戦を突きつけられたのだ。そして、彼はこの挑戦に勝利する。彼は、なにも無くなった後もなお、神を信じた。彼の信仰は御利益信仰でなかった。彼は聖書の神を信じきったのだ。 |
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ヨブ記に出てくる神の直接の言葉である。信仰の人ヨブ、義人と言われたヨブに起こった災難を巡って、ヨブと彼の友人が取り交わした、その原因をめぐる論争の後の神の言葉である。 ヨブ記にはさまざま教えが書かれているが、神とはなんなのか、と言うことも大きなテ−マの一つである。聖書の神とはどのようなお方なのか。 神が愛の方ならば、なぜ人間はこのような色々の苦しみにあわねばならないのか。愛と苦難は、両立するのか。ヨブと友人のその原因の論争ががあるが、結局は、人間ではわからない。人間が知る知恵や知識のレベルでは、答えられないのだ。摂理は結局の所、無いのだ。 聖書の神は愛の神である。したがって、神が神を信じる者の不幸や、苦難を願う事など有りないのは当然だ。しかし、苦難や、不幸はやってくる。この原因は我々が神から離れ、神から遠ぞいたことからきている。ヨブのみならず全ての人間が負う宿命である。 神に帰れ。一時的には、理解できなくても、その時はわからなくてもよい。その試練の向こうに神の定めた祝福が用意されていると信じる。万事を理解できなくても、ただ神を信じよう。聖書の神は、天地万物の創造主。全ての支配者。王の王。神こそ摂理を語れるお方である。 |
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ヨブ記は旧約聖書のなでも、難しい書とされている。なぜなら、信仰とはなにかを、神が我々に問われている書でもあるからだ。 なぜ、われわれは、神を信じ、あるい逆に信じないのか。その多くの答えが、信じる者は、神が何々をしてくれたから、何々を与えてくれたからであり、逆に信じない者は何々をしてくれなかったから、与えてくれなかったからという理由である。 これは人間のある部分の本質である。人間の弱さ、人間の我欲の本音でもある。しかし、聖書の神の問いかけは、はたしてどうか。 何々があるとか、何々が与えれるという、条件がなければ、神を信じることができないのか。信じることは、ある意味での無条件なのではないか。 神が我々に与える喜び、祝福、富、豊かさは、我々がなにかを成したから、得るものなのだろうか。そうではない。神の愛は無条件の愛である。祝福もそう、豊かもそう、富もそうである。一番大切な魂の救いもそうである。 だとするなら、信じるもそうでなければならないのではないか。なにもなくともよい。しかし、ただ神を信ぜよ。ヨブはそうすることにより、失った富や豊かさの倍の祝福を神から得るのである。神に対して一時は疑問を持ったヨブの悔い改めの祈りが、この聖句である |
一年以上にわたり、掲載してきましたが、1週1話は今回をもってしばらくの間お休みをさせていただきます。